501-600
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日本書紀 古事記
501 武烈3 継体・17歳
502 武烈4 継体・18歳
503 武烈5 継体・19歳
504 武烈6 継体・20歳
505 武烈7 継体・21歳
506 武烈8 継体・22歳
507 継体元 継体・23歳
508 継体2 継体・24歳
509 継体3 継体・25歳
510 継体4 継体・26歳
511 継体5 継体・27歳
512 継体6 継体・28歳
513 継体7 継体・29歳
514 継体8 継体・30歳
515 継体9 継体・31歳
516 継体10 継体・32歳
517 継体11 継体・33歳
518 継体12 継体・34歳
519 継体13 継体・35歳
520 継体14 継体・36歳
521 継体15 継体・37歳
522 継体16 継体・38歳
523 継体17 継体・39歳
524 継体18 継体・40歳
525 継体19 継体・41歳
526 継体20 継体・42歳
527 丁未 継体21 継体・43歳・4月9日継体崩御
528 継体22 安閑元
529 継体23 安閑2
530 継体24 安閑3
531 継体25・82歳 安閑4
532 安閑元 安閑5
533 安閑2・70歳 安閑6
534 宣化元 安閑7
535 乙卯 宣化2 安閑8・3月13日安閑崩御
536 宣化3 宣化元
537 宣化4 宣化2
538 欽明元 欽明元
539 欽明2 欽明2
540 欽明3 欽明3
541 欽明4 欽明4
542 欽明5 欽明5
543 欽明6 欽明6
544 欽明7 欽明7
545 欽明8 欽明8
546 欽明9 欽明9
547 欽明10 欽明10
548 欽明11 欽明11
549 欽明12 欽明12
550 欽明13 欽明13
551 欽明14 欽明14
552 欽明15 欽明15
553 欽明16 欽明16
554 欽明17 欽明17
555 欽明18 欽明18
556 欽明19 欽明19
557 欽明20 欽明20
558 欽明21 欽明21
559 欽明22 欽明22
560 欽明23 欽明23
561 欽明24 欽明24
562 欽明25 欽明25
563 欽明26 欽明26
564 欽明27 欽明27
565 欽明28 欽明28
566 欽明29 欽明29
567 欽明30 欽明30
568 欽明31 欽明31
569 欽明32 欽明32
570 欽明33 欽明33
571 敏達元 敏達元
572 敏達2 敏達2
573 敏達3 敏達3
574 敏達4 敏達4
575 敏達5 敏達5
576 敏達6 敏達6
577 敏達7 敏達7
578 敏達8 敏達8
579 敏達9 敏達9
580 敏達10 敏達10
581 敏達11 敏達11
582 敏達12 敏達12
583 敏達13 敏達13
584 甲辰 敏達14 敏達崩御 敏達14・4月6日敏達崩御
585 用明元 用明元
586 用明2 用明2
587 丁未 用明3 用明崩御 用明3・4月5日用明崩御
588 用明4
589 崇峻元 崇峻元
590 崇峻2 崇峻2
591 崇峻3 崇峻3
592 壬子 崇峻4 崇峻崩御 崇峻4・11月13日崇峻崩御
593 戊子 推古元 推古2
594 戊子 推古2 推古3
595 戊子 推古3 推古4
596 戊子 推古4 推古5
597 戊子 推古5 推古6
598 戊子 推古6 推古7
599 戊子 推古7 推古8
600 戊子 推古8 推古9
601 戊子 推古9 推古10
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三国史記 巻第二十六
百済本紀第四 文周王 三斤王 東城王 武寧王 聖王
第二四代 東城王(在位四七九―五〇一)
二十三年(五〇一)春正月、王都の老婆が狐に変化してにげ去った。
二匹の虎が南山で闘っていたので、これを捕えようとしたが、とらえられなかった。
三月、霜がおりて、麦をいためた。
夏五月、雨が秋まで降らなかった。
秋七月、炭硯に柵を設けて、新羅〔の侵入〕に備えた。
八月、加林城(別名聖興山城。忠南扶余郡林川面)を築いて、衛士佐平の白加に鎮らせた。
冬十月、王は四比の東方の原野で田猟した。
十一月、〔王は〕熊川(錦江)の北の河原で田猟し、ついで四比の西方の原野で田猟したが、大雪に阻まれて〔王都に帰れず〕、馬浦村(忠南舒川郡韓山面か)に宿った。さきに王は、白加に加林城を鎮らせたが、〔白〕加が、〔加林城に〕往くのをきらって、病気を理由に辞退した。〔しかし、〕王が許さなかったので、このことで〔白加は〕王を怨み、このときになって、人を使って王を刺傷させた。
十二月になって、王が薨去したので、盆して、東城王といった。
(分注。『冊府元亀』には、〔次のように〕いっている。
南斉の建元二年(四八〇)に、百済王牟都が、使者を派遣し、貢献してきた。〔そこで、南斉の高帝が〕詔して、「天命がここにあらたまり、恩沢が遠く離れた地域にまでおよんでいる。牟都は代々東方で藩屏となり、その職分を遠いところで守っているので、よろしく、使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍〔の称号〕を授けよう〕といった。
また、永明八年(四九〇)に、百済王牟大が使者を派遣し、上表してきたので、〔南斉の武帝は、〕謁者僕射の孫副を〔百済に〕派遣し、〔牟〕大を冊命して、亡租父の牟都〔の官職〕を襲いで、百済王とした。〔そして、武帝は次のようにいった。〕
ああこれは爾が代々忠勤を襲いで、〔その〕誠実さは遠方の地(百済)であらわれている。海路は静かですみわたり、定められた貢物は〔前代と〕かわらず、すべて常典にしたがっているので、高貴な爵位をあつめている。心してつつしめ。それ、大業(王位)をつつしんでうけよ。つつしまないでよかろうか。行都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王〔にする〕。
しかるに、『三韓古記』には、牟都を王としたことがない。また、牟大は蓋歯王の孫で、蓋歯王の第二子昆支の子であるので、その祖先を牟都とはいわないように思われる。そうすれば、『斉書』が記載していることは、疑わないわけにはいかない。)
第二五代 武寧王(在位五〇一―五二三)
武寧王は偉を斯摩(分注。隆ともいう)といい、牟大王(東城王)の第二子である。〔武寧王は〕身長が八尺もあり、眉や目は描いたように〔美しく〕、仁愛・慈悲〔の気持〕が寛く深かったので、民心は〔王に〕したがいついた。牟大〔王〕が在位二十三年(五〇一)に薨去したので、〔王〕位に即いた。
春正月、佐平の箔加が加林城によって反乱をおこした。王は歩兵や騎兵を率いて牛頭城に到着し、汗率の解明に討伐を命じた。箔加は〔加林城を〕出て降服したが、王はこれを斬って、〔その屍を〕白江(錦江下流)に投げこんだ。
〔編者金富拭はこのことについて次のような〕意見をもっている。
『春秋』に、
人臣はさからってはならない。さからえば必ず誅殺される。
といっている。箔加の元凶・大悪については、天地も容認しないところである。〔さきに〕彼を罰しないで、このときになって〔箔加〕自身がのがれられないのを知り、謀叛したのち誅殺するのは、手おくれである。
高句麗・東明聖王(朱蒙)-百済・温祚王-多婁王-己婁王-蓋婁王-肖古王-仇首王-比流王-近肖古王-近仇首王-枕流王-阿莘王-腆支王-久尓辛王-毘有王-蓋鹵王-昆支-東城王-武寧王-淳陀太子
三国遺事 王暦 第一(新羅・高句麗・百済その他の各王の系譜)
百済
第二十五虎寧王=名は斯摩で、東城(王)の次男である。辛巳に即位して、二十二年間治めた。南史には、名を扶余隆といっているが間違いである。隆は賓蔵王の太子であり、唐史に詳しく載っている。