501-600

https://origin.hatenadiary.com/entry/0401/01/01/000000
       日本書紀      古事記
501    武烈3       継体・17歳
502    武烈4       継体・18歳
503    武烈5       継体・19歳
504    武烈6       継体・20歳
505    武烈7       継体・21歳
506    武烈8       継体・22歳
507    継体元       継体・23歳
508    継体2       継体・24歳
509    継体3       継体・25歳
510    継体4       継体・26歳
511    継体5       継体・27歳
512    継体6       継体・28歳
513    継体7       継体・29歳
514    継体8       継体・30歳
515    継体9       継体・31歳
516    継体10      継体・32歳
517    継体11      継体・33歳
518    継体12      継体・34歳
519    継体13      継体・35歳
520    継体14      継体・36歳
521    継体15      継体・37歳
522    継体16      継体・38歳
523    継体17      継体・39歳
524    継体18      継体・40歳
525    継体19      継体・41歳
526    継体20      継体・42歳
527 丁未 継体21      継体・43歳・4月9日継体崩御
528    継体22      安閑元
529    継体23      安閑2
530    継体24      安閑3
531    継体25・82歳  安閑4
532    安閑元       安閑5
533    安閑2・70歳   安閑6
534    宣化元       安閑7
535 乙卯 宣化2       安閑8・3月13日安閑崩御
536    宣化3       宣化元
537    宣化4       宣化2
538    欽明元       欽明元
539    欽明2       欽明2
540    欽明3       欽明3
541    欽明4       欽明4
542    欽明5       欽明5
543    欽明6       欽明6
544    欽明7       欽明7
545    欽明8       欽明8
546    欽明9       欽明9
547    欽明10      欽明10
548    欽明11      欽明11
549    欽明12      欽明12
550    欽明13      欽明13
551    欽明14      欽明14
552    欽明15      欽明15
553    欽明16      欽明16
554    欽明17      欽明17
555    欽明18      欽明18
556    欽明19      欽明19
557    欽明20      欽明20
558    欽明21      欽明21
559    欽明22      欽明22
560    欽明23      欽明23
561    欽明24      欽明24
562    欽明25      欽明25
563    欽明26      欽明26
564    欽明27      欽明27
565    欽明28      欽明28
566    欽明29      欽明29
567    欽明30      欽明30
568    欽明31      欽明31
569    欽明32      欽明32
570    欽明33      欽明33
571    敏達元       敏達元
572    敏達2       敏達2
573    敏達3       敏達3
574    敏達4       敏達4
575    敏達5       敏達5
576    敏達6       敏達6
577    敏達7       敏達7
578    敏達8       敏達8
579    敏達9       敏達9
580    敏達10      敏達10
581    敏達11      敏達11
582    敏達12      敏達12
583    敏達13      敏達13
584 甲辰 敏達14 敏達崩御 敏達14・4月6日敏達崩御
585    用明元       用明元
586    用明2       用明2
587 丁未 用明3 用明崩御  用明3・4月5日用明崩御 
588    用明4
589    崇峻元       崇峻元
590    崇峻2       崇峻2
591    崇峻3       崇峻3
592 壬子 崇峻4 崇峻崩御  崇峻4・11月13日崇峻崩御
593 戊子 推古元       推古2
594 戊子 推古2       推古3
595 戊子 推古3       推古4
596 戊子 推古4       推古5
597 戊子 推古5       推古6
598 戊子 推古6       推古7
599 戊子 推古7       推古8
600 戊子 推古8       推古9
601 戊子 推古9       推古10

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三国史記 巻第二十六
  百済本紀第四 文周王 三斤王 東城王 武寧王 聖王
第二四代 東城王(在位四七九―五〇一)
 二十三年(五〇一)春正月、王都の老婆が狐に変化してにげ去った。
 二匹の虎が南山で闘っていたので、これを捕えようとしたが、とらえられなかった。
 三月、霜がおりて、麦をいためた。
 夏五月、雨が秋まで降らなかった。
 秋七月、炭硯に柵を設けて、新羅〔の侵入〕に備えた。
 八月、加林城(別名聖興山城。忠南扶余郡林川面)を築いて、衛士佐平の白加に鎮らせた。
 冬十月、王は四比の東方の原野で田猟した。
 十一月、〔王は〕熊川(錦江)の北の河原で田猟し、ついで四比の西方の原野で田猟したが、大雪に阻まれて〔王都に帰れず〕、馬浦村(忠南舒川郡韓山面か)に宿った。さきに王は、白加に加林城を鎮らせたが、〔白〕加が、〔加林城に〕往くのをきらって、病気を理由に辞退した。〔しかし、〕王が許さなかったので、このことで〔白加は〕王を怨み、このときになって、人を使って王を刺傷させた。
 十二月になって、王が薨去したので、盆して、東城王といった。
 (分注。『冊府元亀』には、〔次のように〕いっている。
  南斉の建元二年(四八〇)に、百済王牟都が、使者を派遣し、貢献してきた。〔そこで、南斉の高帝が〕詔して、「天命がここにあらたまり、恩沢が遠く離れた地域にまでおよんでいる。牟都は代々東方で藩屏となり、その職分を遠いところで守っているので、よろしく、使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍〔の称号〕を授けよう〕といった。
  また、永明八年(四九〇)に、百済王牟大が使者を派遣し、上表してきたので、〔南斉の武帝は、〕謁者僕射の孫副を〔百済に〕派遣し、〔牟〕大を冊命して、亡租父の牟都〔の官職〕を襲いで、百済王とした。〔そして、武帝は次のようにいった。〕
   ああこれは爾が代々忠勤を襲いで、〔その〕誠実さは遠方の地(百済)であらわれている。海路は静かですみわたり、定められた貢物は〔前代と〕かわらず、すべて常典にしたがっているので、高貴な爵位をあつめている。心してつつしめ。それ、大業(王位)をつつしんでうけよ。つつしまないでよかろうか。行都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王〔にする〕。
  しかるに、『三韓古記』には、牟都を王としたことがない。また、牟大は蓋歯王の孫で、蓋歯王の第二子昆支の子であるので、その祖先を牟都とはいわないように思われる。そうすれば、『斉書』が記載していることは、疑わないわけにはいかない。)

第二五代 武寧王(在位五〇一―五二三)
 武寧王は偉を斯摩(分注。隆ともいう)といい、牟大王(東城王)の第二子である。〔武寧王は〕身長が八尺もあり、眉や目は描いたように〔美しく〕、仁愛・慈悲〔の気持〕が寛く深かったので、民心は〔王に〕したがいついた。牟大〔王〕が在位二十三年(五〇一)に薨去したので、〔王〕位に即いた。
 春正月、佐平の箔加が加林城によって反乱をおこした。王は歩兵や騎兵を率いて牛頭城に到着し、汗率の解明に討伐を命じた。箔加は〔加林城を〕出て降服したが、王はこれを斬って、〔その屍を〕白江(錦江下流)に投げこんだ。
〔編者金富拭はこのことについて次のような〕意見をもっている。
 『春秋』に、
   人臣はさからってはならない。さからえば必ず誅殺される。
 といっている。箔加の元凶・大悪については、天地も容認しないところである。〔さきに〕彼を罰しないで、このときになって〔箔加〕自身がのがれられないのを知り、謀叛したのち誅殺するのは、手おくれである。

高句麗東明聖王朱蒙)-百済温祚王-多婁王-己婁王-蓋婁王-肖古王-仇首王-比流王-近肖古王-近仇首王-枕流王-阿莘王-腆支王-久尓辛王-毘有王-蓋鹵王-昆支-東城王-武寧王-淳陀太子

三国遺事 王暦 第一(新羅高句麗百済その他の各王の系譜)
百済
第二十五虎寧王=名は斯摩で、東城(王)の次男である。辛巳に即位して、二十二年間治めた。南史には、名を扶余隆といっているが間違いである。隆は賓蔵王の太子であり、唐史に詳しく載っている。