第一八代 腆支王(在位四〇五―四二〇)

三国史記 巻第二十五 百済本紀第三

第一八代 腆支王(在位四〇五―四二〇)

 腆支王(分注。直支ともいう)は、『梁書』に名は映〔とある〕。阿莘〔王〕の嫡男で、阿莘〔王〕在位第三年(三九四)に太子となり、六年(三九七)倭国に人質としていった。十四年(四〇五)に王が薨去すると、仲弟の訓解が政治をとって、太子の帰国を待っていた。末弟の礫礼が訓解を殺して、かってに王となった。腆支は倭〔国〕にいて〔父の阿莘王の〕訃報を聞き、大声をあげて泣き、帰国を要請した。倭王は百人の兵士を護衛につけて送り国境まできた。〔このとき、〕漢城の人の解忠が来て、

  大王がなくなると、王弟の礫礼が兄を殺し、自立しました。どうか、太子は軽々しく国に入らないでください。

と告げた。腆支〔王〕は倭人を留めて自衛し、海中の島にたてこもって、〔時期を〕待った。国人が礫礼を殺し、腆支〔王〕を迎え、〔王〕位に即けた。
〔王〕妃の八須夫人は、子の久迩辛を生んだ。
 二年(四〇六)春正月、王は東明廟に詣り、〔さらに、〕天地〔の神〕を南壇に祭り、大赦〔をおこなった〕。