七支刀

表「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥」
裏「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世」

泰和四年〔三六九〕五月十六日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を造った。すすんでは百たびの戦いを避け、恭しい侯王(が帯びるの)にふさわしい。先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子貴須は、特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである。


銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。これを「泰和四年」のこととして、東晋の太和4年(369年)に鋳造されたと解釈するのが通説であるが、異論もある。日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述があり、百済から倭国へ贈与された年が372年にあたるため、これと同一のものであろうと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80


日本書紀 巻第九 神功皇后 気長足姫尊
 五十一年(二五一)春三月、百済王はまた久氐を遣わし朝貢した。
 五十二年(二五二)秋九月十日、久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。
 五十五年(二五五)、百済の肖古王が薨じた。五十六年(二五六)百済の貴須が王となった。
日本書紀 巻第十 応神天皇 誉田天皇
 二十五年(二九四)百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。王の母と通じて無礼が多かった。天皇はこれを聞いておよびになった。


三国史記巻二十三 百済本紀第一
第五代 肖古王(在位一六六―二一四)
 四十九年(二一四)秋九月、北部の真果に一千の軍隊を率い、靺鞨の石門城(黄海道瑞興郡瑞興面西北の雲磨山の石門寺か)を襲撃し、奪い取らせた。
 冬十月、靺鞨は強力な騎馬隊で侵入し、述川(京畿道驪川郡驪川邑)まできた。
 王が薨去した。
三国史記巻二十四 百済本紀第二
第六代 仇首王(在位二一四―二三四)
 仇首王(分注。貴須ともいう)は、肖古王の長子で、身長が七尺もあり、容姿・動作が他に異なり秀れていた。肖古〔王〕在位四十九年(二一四)に、〔肖古王が〕薨去したので、〔王〕位に即いた。
三国史記巻第二十四 百済本紀第二
第一三代 近肖古王(在位三四六―三七五)
 三十年(三七五)秋七月、高句麗が北部辺境の水谷城(黄海道新渓郡多栗面)を攻めおとした。王は将軍を派遣して反撃したが、勝てなかった。王は再度、大軍を派遣してこれに報復しようとしたが、不作のため果さなかった。
 冬十一月、王が薨去した。
第一四代 近仇首王(在位三七五―三八四)
 近仇首王(分注。緯は須ともいう)は、近肖古王の子である。これよりさき、高句麗の国岡王斯由(故国原王)が自ら侵入して来たので、近肖古王は太子(近仇首王)を派遣し、邀撃させた。〔百済軍が〕半乞壌に到着し、いよいよ戦おうとしたとき、高句麗人の斯紀はもと百済人で、誤って国〔王の〕馬蹄を傷つけ、罪を懼れて、高句麗に逃れたが、このときになって帰って来て、太子に、
  彼〔の高句麗軍〕は多いけれども、みな数だけをそろえた擬兵で、そのうち、強く勇ましい〔部隊〕は、ただ赤旗〔の部隊〕だけです。もし、まずこれを撃破すれば、その余は攻めなくても自滅します。
と告げた。〔そこで〕太子はこれに従って進撃し、大いにこれを破り、奔る〔高句麗軍〕を追い、水谷城の西北についた。将軍の莫古解が諫めて、
  むかし、道家の言をきくと、「足るを知るものは、辱めをうけない。止まるを知るものは台うくない」。いま得るところが多いのに、どうして、これ以上多くを求める必要がありましょうか。
といった。太子はこれをよしとして、〔軍を〕止めて、石を積み、〔戦勝の〕しるしとした。〔太子は〕その上に登って、近臣たちに、
  今日ののち、勝利を伝え、再びここにこられるだろうか。
といった。この地には、巌石に馬蹄のようなひびがあり、人々は今にいたるも太子の馬〔蹄〕の跡であると伝えている。
 近肖古〔王〕は、在位三十年(三七五)に薨去したので、〔近仇首王が王〕位に即いた。


百済
温祚王(在位18-28年)
多婁王(28-77)
己婁王(77-128)
蓋婁王(128-166)
肖古王(166-214)
仇首王(214-234)
沙伴王(234)
古尓王(234-286)
責稽王(286-298)
汾西王(298-304)
比流王(304-344)
契王(344-346)
近肖古王(346-375)
近仇首王(375-384)
枕流王(384-385)
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
毗有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
聖王(523-554)
威徳王(554-598)
恵王(598-599)
法王(599-600)
武王(600-641)
義慈王(641-660)