第16代 仁徳天皇 313年1月3日〜399年1月16日

日本書紀 巻第十一 仁徳天皇

 大鷦鷯天皇応神天皇の第四子である。母を仲姫命という。五百城入彦皇子の孫である。天皇は幼時より聡明で、叡智であらせられた。容貌が美しく壮年に至ると、心広くめぐみ深くいらっしゃった。
 四十一年春二月、応神天皇が亡くなられた。太子菟道稚郎子は、位を大焦鳥尊に譲ろうとして、まだ即位されなかった。

 太子がいわれるのに、「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」といって、ついに自殺をされた。


 元年春一月三日、大鷦鷯尊は即位された。皇后(応神天皇の皇后)を尊んで皇太后といわれた。難波に宮を造られ高津宮一二という。

一二 今の大阪城址の辺と思われるが、宮址は未定。大阪市東区餌差町の高津高校校庭に宮址の碑石が建てられているが、確実な根拠があるわけではない。→補注25‐一三。


四十一年(312年)春三月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03120301
元年(313年)春一月三日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03130103
二年(314年)春三月八日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03140308
四年(316年)春二月六日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03160206
三月二十一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03160321
七年(319年)夏四月一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03190401
秋八月九日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03190809
九月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03190809
十年(322年)冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03221001
十一年(323年)夏四月十七日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03230417
冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03231001
十二年(324年)秋七月三日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03240703
八月十日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03240810
冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03241001
十三年(325年)秋九月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03250901
冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03251001
十四年(326年)冬十一月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03261101
十六年(328年)秋七月一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03280701
十七年(329年) http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03290101
秋九月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03290901
二十二年(334年)春一月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03340101
三十年(342年)秋九月十一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03420911
冬十月一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03421001
十一月七日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03421107
三十一年(343年)春一月十五日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03430115
三十五年(347年)夏六月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03470601
三十七年(349年)冬十一月十二日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03491112
三十八年(350年)春一月六日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03500106
秋七月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03500701
四十年(352年)春二月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03520201
四十一年(353年)春三月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03530301
四十三年(355年)秋九月一日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03550901
五十年(362年)春三月五日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03620305
五十三年(365年) http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03650101
夏五月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03650501
五十五年(367年) http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03670101
五十八年(370年)夏五月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03700501
冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03701001
六十年(372年)冬十月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03721001
六十二年(374年)夏五月 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03740501
六十五年(377年) http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03770101
六十七年(379年)冬十月五日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03791005
八十七年(399年)春一月十六日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03990116
冬十月七日 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/03991007


仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
古事記の干支崩年に従えば、応神天皇崩御が西暦394年、仁徳天皇崩御が西暦427年となり、その間が在位期間となる。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。

概説
応神天皇崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとも考えられる。そもそも記述を素直に信じれば140歳を超える長寿で没したことになり、二人の天皇がいたと考えた方が自然とも言える。
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。この矛盾も、応神‐仁徳の系譜が実際には造作されていることをうかがわせる。
なお、『宋書倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。

系譜
応神天皇の第4皇子。母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。
皇后(前):磐之媛命(いわのひめのみこと、石之日売命。葛城襲津彦の女)
大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇
住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、墨江之中津王)
瑞歯別尊(みずはわけのみこと、反正天皇
雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇
皇后(後):八田皇女(やたのひめみこ、矢田皇女。応神天皇の皇女)
妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。諸県君牛諸井の女)
大草香皇子(おおくさかのみこ、大日下王・波多毘能大郎子)
草香幡梭姫皇女(くさかのはたびのひめみこ、橘姫皇女・若日下部命) 雄略天皇の皇后
妃:宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ、菟道稚郎姫皇女。応神天皇の皇女)
妃:黒日売(くろひめ。吉備海部直の女)

皇居
都は難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の大阪府大阪市中央区か)。

業績
日本書紀には、次の事績が記されている。
河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北〜久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
紀角宿禰百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
原文:(遣紀角宿禰於百濟、始分國郡疆場、具録郷土所出)
また、古事記には、次のとおり記されている。
この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。

また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。

没年
「この天皇の御年、八十三歳(やそじまりみとせ)。分注−丁卯の年の八月十五日に崩(かむあが)りましき」(『古事記』)。
「八十七年の春正月の戊子の朔(ついたち)癸卯に、天皇、崩(かむあが)りましぬ」(『日本書紀』)。

陵墓
百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に葬られた。名前の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。
延喜式』諸陵寮に「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」とあり、同陵は大阪府堺市堺区大仙町の大仙陵古墳前方後円墳・全長486m、大仙古墳・大山古墳とも)に比定される。『古事記』にも「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野稜(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。


萬葉集 巻第二
    相聞
難波高津宮に宇御めたまひし天皇の代 大鷦鷯天皇 諡して仁徳天皇と曰ふ
   磐姫皇后の、天皇を思ひて御作りたまひし歌四首
85君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちには待たむ
    右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に載せたり。
86かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを
87ありつつも君をば待たむうちなびくわが黒髪に霜の置くまでに
88秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ
   或る本の歌に曰く
89居り明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜を降るとも
   古事記に曰く、軽太子、軽太郎女を姧み、故にその太子伊予の湯に流されき。この時に、衣通王、恋慕に堪へずして追ひ往きし時に、歌ひて曰く
90君が行き日長くなりぬやまたづの迎へを行かむ待つには待たじ ここに「やまたづ」と云ふは、これ今の造木をいふ
     右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と、説く所同じからず。歌主もまた異なれり。因りて、日本紀を撿ふるに曰く、「難波高津宮に宇御めたまひし大鷦鷯天皇の二十二年の春正月、天皇の皇后に語らく、「八田皇女を納めて将に妃と為さむとす」とのたまふ。時に皇后聴したまはず。ここに天皇歌ひて以て皇后に乞ひたまひき云々。三十年の秋九月乙卯の朔の乙丑、皇后紀伊国に遊行して、熊野岬に到りて、その処の御綱葉を取りて還りたまひき。ここに天皇、皇后の在らざるを伺ひて、八田皇女を娶りて宮の中に納れたまひき。時に、皇后難波の済に到り、天皇の八田皇女に合ひしことを聞き、大きに恨みたまひき云々」といふ。また曰く、「遠飛鳥宮に宇御めたまひし雄朝嬬稚子宿祢天皇の二十三年の春三月甲午の朔の庚子、木梨軽皇子、太子と為りたまひき。容姿佳麗、見る者自らに感しむ。同母妹軽太郎皇女もまた艶妙なりきと云々。遂に窃かに通じ、乃ち悒懐少しく息みき。二十四年の夏、御羹の汁凝りて以て氷と作る。天皇異しみ、その所由を卜者の曰く、「内乱有り、蓋し親を親として相姧せるか」といひき云々。仍ち太娘皇女を伊予に移しき」といふ。今案ふるに、二代二時、この歌を見ず。