三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 第三十

三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 第三十

 その八年(二四七)、太守王頌が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(卑弓弥呼?彦尊か)ともとから不和である。倭〔の〕載斯烏越(須佐・佐世、出石・伊蘇志大兄か)らを遣わして郡にゆき、たがいに攻撃する状況を説明した。塞曹援史張政らを遣わして、詔書・黄憧をもたらし、難升米に仮りに授けて、檄(ふれがみ・めしぶみ)をつくってこれを告喩(つげさとす)した。
 卑弥呼が死ぬと、大規模に塚が築かれた。その直径は百余歩。奴婢百人以上が殉葬された。つづいて男王が立ったが、国じゅうの者が心服せず、殺し合いがつづいて、このとき、千人以上の死者が出た。そこで卑弥呼の親族の娘壱与が立てられ、十三歳で王となって、国の中もやっと安定した。張政らは檄文によって壱与に〔立派に政治を行なうよう〕教えさとした。壱与は、倭の大夫で率善中郎将である液邪狗ら二十人を遣わして張政らの帰還を送らせ、〔朝鮮に渡った倭の使者は〕そのまま中国の朝廷におもむいて男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二個、異文の雑錦二十匹を貢物としておさめた。

 評にいう。


三国史記 巻第二十四 百済本紀第二

第八代 古迩王(在位二三四―二八六)

 十四年(二四七)春正月、〔王は〕天地〔の神〕を南壇に祭った。