誉田別皇子の立太子

日本書紀 巻第九

神功皇后 気長足姫尊

 四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国(大丘にあった)に遣わした。卓淳の王、末錦旱岐が、斯摩宿禰にいうのに、「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐・弥州流・莫古の三人がわが国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、われらを遣わしてその国に行かせた。もしよく吾々に道を教えて、通わせて頂けば、わが王は深く君を徳とするでしょう』と。そのとき久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。けれどもまだ交通が開けていないので、その道が分らない。海路は遠く波は険しい。大船に乗れば何とか通うことができるだろう。途中に中継所があったとしても、かなわぬことである』と。久氐らが『もう一度帰って船舶を用意して出直しましょう』と。このように話し合って帰った」と。



三国史記 巻第二 新羅本紀第二

第一一代 助憤尼師今(在位二三〇―二四七)

 十七年(二四六)冬十月、東南地方で濃霧が発生し、白布〔で包まれたよう〕であった。


三国史記 巻第二十四 百済本紀第二

第八代 古迩王(在位二三四―二八六)

 十三年(二四六)夏、ひどい旱魃で麦が実らなかった。
 秋八月、魏の幽州刺史の母丘倹は、楽浪太守の劉茂・朔方太守王遵らと、高句麗を討伐した。王はその隙に乗じて、左将の真忠に、楽浪〔郡〕の辺境の住民を掠奪させた。〔劉〕茂は〔この報告を〕聞いて、怒った。王は〔楽浪郡の軍隊に〕侵入・討伐されるのを忘れて、〔掠めてきた〕人々を還した。