誉田別皇子の立太子

日本書紀 巻第九

神功皇后 気長足姫尊

 三年春一月三日、誉田別皇子を立てて皇太子として、大和国の磐余に都を造った。これを若桜宮という。


淮南子 淮南鴻烈解序 高誘

 私は若い時から、もとの侍中で同県の慮君(慮植)に従って、本書のよみ方を教わり、大旨を学んだ。折しも兵乱(黄巾の乱)のよって天下が群雄割拠の状となるに遭遇し、書伝の類を亡失したため、攻学を廃すること二十余年に及んだ。建安十年(二〇三)、司空の縁に召され、東部の僕陽の令に任ぜられたが、その折、当今の人で『淮南王書』を学ぶ者の少ないことを知り、次第に衰微して行くのではないかと懸念した。そこで朝夕の公務の間において、深く先師(慮植)の教訓を想起し、経伝や道家の言を参考して本書の記事と対校し、その注解を作った。本文のすべてを載せ、併せて音読を附したのである。ところが典農中郎将の弁輯が〔その中の〕八巻を借り出し、〔返却を〕督促していたところ、あいにくと輯の死去に遭って、遂に〔八巻を〕失ってしまった。そこで〔建安〕十七年に河東の監に遷ってからもう一度補足を加えたわけである。浅学寡見の身であって、注解は決して十全なものとは称し難い。不明の点は「未聞」と注しておいた。幸いに博雅の君子の高覧を得てこの点が詳らかにされ、後学の裨益とならんことをひたすら希い願うものである。