神功皇后

日本書紀 巻第九
神功皇后 気長足姫尊
 二年冬十一月八日、天皇仲哀天皇)を河内国の長野陵(大阪府南河内郡美陵町大字岡)に葬った。


三国志 魏書 武帝紀 第一
 七年(二〇二)春正月、公は譙に駐留し、布告を出した、「わたしは義兵を起し、天下のために暴乱を除去したが、旧地(故郷の譙)の人民はほとんど死滅してしまい、まち中を一日歩きまわっても顔見知りに出会わない。わたしは愴然たる思いに胸をいたませられる。さて、義兵をあげて以来、死んで後継ぎのない将兵の場合には、その親戚を探し出して後継ぎとし、田地を授け、官より耕牛を支給し、教師を置いてその者に教育を与えよ。〔後継ぎの〕存在している者のためには廟を立ててやり、その先人を祭らしめよ。霊魂というものが存在するならば、わしの死せるのちも何の思い残すことがあろうぞ。」

 袁紹は軍が敗れてからのち、発病して血を吐き、夏五月に死去した。

秋九月、公は彼らを征伐し、連戦した。