野見宿禰と埴輪
日本書紀 巻第六
三十七年春一月一日、大足彦命を立てて皇太子とされた。
三国史記 巻第一
新羅本紀第一 始祖赫居世居西干 南解次次雄 儒理尼師今 脱解尼師今
婆娑尼師今 祇摩尼師今 逸聖尼師今
第二代 南解次次雄(在位四―二四)
五年(八)春正月、王は脱解が賢者であることを聞き、長女を彼と結婚させた。
第二代 瑠璃明王(在位前一九―後一八)
二十七年(八)春正月、王太子の解明は、古都にいて、力が強く、武勇を好んだ。
新(8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。
周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、その統治は失敗に終わり、国内には不満をもつものが多くなった。
具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。
遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、後者では6〜7割が餓死・疫病で死んだとされる。
やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。
新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照。